ボンクラで障害持ちな私なので両親が死んだら野垂れ死に確定と思うけど、どうにか生きています。

反吐をぶちまけます。コメント返しは気まぐれ。2020年9月02日にHN変えました。2020年12月9日にブログ題名変えました。

メモ

 
 
マルクス主義者であっても、宮殿に住んで絶大な権力をふるうことができるのだから、男であっても、当然フェミニズム批評はやれる。家事・育児・老人介護など、めんどうなことは一切妻に任せて書斎にこもり、資料を読みあされば、フェミニズム批評の一篇や二篇はすぐ書けるだろう。
家事の大半を負担している女に書けるものなら、家事の半分を負担する男にだって十分書けるはずである。フェミニストにとっては迷惑このうえないが、言行不一致が気にならない男たちが、フェミニズム批評を男にとっての穴場と見て参入してくるのは阻止できないし、また、その方法もない。】
【日本ではまだこんなことを心配するにはとてもいたらないが、英米ではフェミニズム批評の浸透がこの種の新しい問題を提起している。たとえば、これまでフェミニズム批評など歯牙にもかけなかった男の批評家たちが、ジョナサン・カラーが「女として読むこと」について長々と書くと、ちゃんと読む。
テリー・イーグルトンが、フェミニズム批評の考え方を取り入れて『クラリッサの陵辱』を書くと、これもちゃんと読む。しかし、それでわかった気になってしまって、本家、ショーウォルター編集の『新フェミニズム批評理論集』は読まない、という現象が起こっている。】
【「文学テクストには性がある」、あるいは「文学批評には性がある」が公認の批評的前提となる日が来ても、フェミニズムは喜んでばかりはいられない。目に見えるあらゆる財産と同様、〈名誉〉も盗まれうるからだ。学問上の新しい発見は、その発見者の名を冠しておかないかぎり、常識化すればするほど
実社会の男性優位主義に影響されて女の影が薄くなる傾向がある。「フェミニズム批評」の代わりに、「ジェンダー批評(gender-based criticism)」などという、いかにも中立的で、男にもできそうな批評のイメージをもつ新語の登場が象徴的である。
ジェンダー〉の概念を導入しただけの批評なら、マスキュリズム批評の立場に立ったままでも立派に「ジェンダー批評」ではないか。】
【強固な体制にはある種の寛容さがあって、自己に対する批判・反動も体制内化することで、自身を一層打ち勝ちがたい体制にしていくようなところがある。この点、家父長制と資本主義はよく似ている。
【強固な体制にはある種の寛容さがあって、自己に対する批判・反動も体制内化することで、自身を一層打ち勝ちがたい体制にしていくようなところがある。この点、家父長制と資本主義はよく似ている。
【本書第二章において私はフェミニズム批評がとりあえず体制内化されるのを望むと書きはしたが、どうやら敵はこちらよりよほど狡猾である。男は自分の支配を維持するためなら女装だって厭わない。女装した男のほうが本物の女よりよほどいろっぽいと考える歌舞伎ファンがいる。
伝統的に女の「性」あるいは「役割」が強みになりうるような職種でも、十分商売になるとふんだら、男は積極的に割り込んできて優位につこうとする。コックでもヘアー・ドレッサーでも服飾デザイナーでも音楽家でも、トップの地位は男のためにリザーブされている。
英米の文学批評界に起こりかけていることがまさにこれである。それゆえ女のフェミニストはここで最小限ひとつのことだけは確認しておく必要があるだろう。男のフェミニスト・クリティックについては、彼が書いていること、言っていること以外にも、彼がやっていることを知るまでは最終的な判断は
くださない、ということだ。不公平なようだが、フェミニズム批評が記号の世界の戯れではなく現実社会の変革をも目指す批評であるからには、言っただけの責任はとってもらわなければならない。】1988,織田元子フェミニズム批評 理論化をめざして』p211-213
 
 
>>伝統的に女の「性」あるいは「役割」が強みになりうるような職種でも、十分商売になるとふんだら、男は積極的に割り込んできて優位につこうとする。コックでもヘアー・ドレッサーでも服飾デザイナーでも音楽家でも、トップの地位は男のためにリザーブされている。
 
 
ここ良く解るわ―。
男が女性向け分野に一人たりとも入ってほしくないんだよね。一人でもいると乗っ取られるから。